Essay

本当に日本の情報だけを信じていいのか

そんなことをぼんやり思った。

多様さ

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

文庫になる前から気になっていたけれど、

図書館で予約は30人待ちくらいだったので、

読みたい欲があるうちに、と購入した。

日本を出て生活したことがない自分にとっては、

多様さとかいうのはあまり馴染んでいないのかもしれない。

足並み揃えなければいけない。

そんな社会で生きている。

それでも 「多様さ」 の中で共存してみたい。

そんな欲が不思議とある。

ブルーとは怒り、

の部分を読んで思い出したエピソードがある。

伝わらない悔しさ

小学6年生になって、

担任の先生の意向で紙のノートに、

その日に起こったことや感じたことを提出する慣わしがあった。

全て手書きで、とくに書くこともなく困る日もあったし、

友達と問題があったでもなく落ち込む日だってあった。

ある日実験的に、I’m sad.とだけ書いて提出した。

覚えたてでほぼ使う事のなかったフレーズを、

ただ使ってみたくて、やった。

そうしたら後日、赤ペンで 何が悲しいの?

と書かれていた。

心底がっかりした。

せっかくこちらは英語が伝わると思った、

正確にいうと伝わったけど日本語で返されたことに、

違和感があった。

なんで先生は私よりも英語の読み書きができるのに、と。

なんだかその後は、

何年も英語を使ってみようという気にはならなかった。

使ってみたらおもしろくなった

しかし、その後28歳の頃、

英語も日本語も堪能なひとに出会った。

その人に、英語で似たことをしてみた。

メールでは、自分の知りうるフレーズや、

音楽から覚えた言い回しをたくさんつかってみた。

そうしたら、そのまま英語で返してくれた。

ものすごく嬉しくて、

自分の引き出しを引っ張りだして、話した。

哲学的なことも面倒がらずに面白がってくれたし、

文法はめちゃくちゃだけれど、

きっと伝わるから、使ってみたらいい、

とも言ってくれた。

学習するモチベーションって、

こんなところにあるのだと思う。

伝えたいことがあって

知りたいことがあって、

それをどうにか工夫していく。

だからただ座っていても、

ツールとしての英語が伸びるはずなんてないんだ。

ドメスティックな思考

必ずしもではないけれど、

日本語でしか情報を集めないわたしのような人は、

触れてる考えそのものがドメスティックなんだと思う。

それはそれで幸せならば、

わざわざ苦しくなるような勉強をすることなんてないのだけれど。

中国製のスマートフォンやパソコンで映画を楽しみ、

ベトナム製のシャツを着ながら、

カナダ産のはちみつを食べるわたしは、

本当に日本の情報だけを信じて生活していていいのだろうか。

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