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AppleMusicのような音楽のサブスクリプション契約を解約してみてから、もう1年以上経っているかもしれないのだけれど、特段こまることもなく過ごせている。No Music No lifeなんて気障なタイトルのブログを読み返すと目をおおいたくなるけれど、音楽はべつに重要ではないという人の視点が増えた気がする。学生時代から社会人になったばかりくらいのときは、もうひたすらに好きな曲を聴いていたし、Bluetoothのイヤホンは充電が保たないからわざわざ有線も持ち歩くようにしていたくらいだった。
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けれども、もう耳が疲れたなあという気分になる時期が定期的にあって、それでも人の話し声がどうも気になるときは、仕方なしに音を小さくしつつカフェ音楽やヒーリング音楽を聴くようにしていた。いまとなっては、それすらいらなくなって、イヤホンなしで散歩することもあるくらいになった。そうすると、鳥の鳴き声ってこんなだったんだなあとしみじみ思って、晴れ間に鳥の声が聞こえるくらい穏やかな時間が遅れている日は幸せだなあと思う。午前中に頭痛も腹痛もなく自然と起きて、あくびをしながらコンビニに向かってコーヒーマシンの抽出を待って、適温で出てきたドリンクを片手に太陽がまぶしいなあとぼーっとしているとき、いい日だなあと思った。湧き上がるような感動でもなければ、崩れ落ちそうなほどの落ち込みからの回復というわけでもないけれど、自分が健やかであるからこそ感じられる幸せだろうと思う。
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きっと、雑踏の中で見知らぬ人の声が気になって本読みが捗らないとか、仕事がこなせないというのは、自分のコンディションが不安定なときなのだと思う。たぶんそういった状態のときは気ままに休むことが必要なのだけれど、どうも一人で過ごす時の寂しさに折り合いがつかないときがある。そんなときに、久しぶりに大音量の音楽が役に立つと思い出した。いつもはチェーンのカフェにいってぼーっとしたりするのだけれど、繁華街のなかにある急な階段を登ったところに入口のある喫茶店に向かった。昼間なのにチェーン店に比べたら薄暗い証明で、カフェだけれど心地よい音量というよりむしろ全身が振動する音量でレコードが流れているところだ。
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そこで、フレンチコーヒーとキャロットケーキを頼んで、しばらく何も考えずに呼吸だけしていた。お店の空気感に馴染んできたころに養老孟司先生と伊集院さんの「世間とズレちゃうのはしょうがない」を読んだ。その中で、好きと嫌いは隣くらい近いところにあるというような話が出てくる。それを自分にとっての楽器の演奏とかダンスとかに重ねて考えてたりした。それぞれ憧れだったり、なんだか楽しいというシンプルな動機だったのに、スコアをつけられたりバトルに出ることを勧められてランク付けされたりしたら、ものすごく嫌いになった。でも、親にも地元の友達にも音楽は続けているか?と聞かれることがある。そのたびに、そういえば好きだったかもなあなんて思い出したりする。本当はにこやかに穏やかに取り組める環境を探すのがいいのかもしれないけれど、なかなかエネルギーが要るなあと尻込みしてしてしまう。