Essay

物価上昇という報道と目の前の違和感

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日本は秋と冬の間のような気候になった。空気は乾いて空は澄んでいる。雲が少なく日差しが強いからか、水面はきらきらとしていて緑の木々と思っていたものはグラデーションになっている。ここ2年ほどだろうか。日本では食品や日用品の物価が上がり、庶民の生活が圧迫されているという報道が続いているらしい。葉物野菜が値上がりしたとか、野菜の代わりにきのこ類でビタミンを摂ろうというキャッチコピーが食料品店でも目につくようになった。しかしながら、生活を圧迫しているものは生きていくために必要な品々なのだろうか?足りないものはお金なのだろうか?お金がありあまるほどに手に入れば人は満たされるのだろうか?

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1週間ほど前にカジュアルなレストランに行った。全国展開しているチェーン店だ。そこには白髪のカップルも、子連れのファミリーも10代と思われる風貌の団体客もいた。もしも日本の家庭の大半が生活を圧迫されているのだとしたら、なぜ街にカジュアルレストランはあり続けているのだろう?食材費の他に、人件費や場所代が上乗せされたお店に人は通えなくなるが自然の流れではないのだろうか?

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年収が上がらない だとか、これからの時代は AI だとか、たくさん聞くようになった。けれども人が生きていくために必要なものは何なんだろうかと思ったりする。もしかしてだけれども、自分で食べ物を準備ができて 輸入品を食べることを諦めるのならば、特段に物価が上昇したところで生活自体が大きく変動することはないのかもしれない。

衣服は今持っているものを着回せば良いのかもしれないし、時代の流れや おしゃれというところに生きがいを感じている場合を除けば、防寒具としての衣服の役割は 現状品でこと足りるであろう。人によって 必要なものも望む生活水準も違うことを理解しているつもりだけれども、そんなにも 物価上昇で困っている本当の理由は何なんだろうと思ったりする。

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コーヒーの良さも便利な生活もネットワークがどこでも使える この環境も、電気やガスが自由に使える 世の中にも慣れきってしまったからこそ、維持するのは大変な お金がかかると感じることがあるのかもしれない。でも、ふと振り返れば 砂糖が手に入らなかった時代に急に戻るわけではないのだから、きっと生活の中で見直せる点はあるのだろうとも思う。 だからと言って今すぐに保ってきた 生活水準を下げたり上げたりと変動させることは 負担になることもわかる。

どんな時代にも変化は訪れるものであり、昔は良かった だとか 未来が良くなるだとかそんなことはよくわからない。けれども、今日も暖かい服を着て 屋根のあるところで眠ることができれば、あとは 暖かいものを食べてほっこりした気持ちになれればそれだけでいいのかもしれないと思う日もある。答えなんてないのかもしれない。